今回は親鸞聖人がお示しくださいました、ご和讃をご紹介します。
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(『正像末和讃』)
■現代語訳
阿弥陀様が、48の願を起こされた理由を尋ねると、
苦悩する私を見捨てないためでした。
長く修行した後、その功徳を私に回し向けることを第一に考えて
「南無阿弥陀仏」という六字の名号で、私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されました。
■簡単な解説
人間は、生きる上で様々な苦悩に出会います。
たとえば、病気で自らの限りある命に気づき、その空しさや不安に駆られたり、思いもよらず我が子に先立たれるという悲しみもあるでしょう。
阿弥陀様は、このような苦しみに日々直面する私の姿を、すでに見抜いていました。
そして、「あなたを救う」と誓い、長い修行によって極楽浄土を完成させ、その修行の功徳を集約し、「南無阿弥陀仏」の名号を完成させたのです。
これによって、この私は、命が終わった後は浄土へ救われていきます。
また命ある間は、阿弥陀さまは、いつでも・どこでも称えやすいようなお念仏・「南無阿弥陀仏」として、私に寄り添って下さっているのです。「あなたの喜びや苦しみは、私の喜びでもあり、苦しみでもある。あなたの悲しみを、私も共に悲しもう」と叫ばれているのです。
つまり、私たちは、お念仏することで、阿弥陀さまが寄り添っていて下さることに気づくことができるのです。それは、私が苦しみから救われていくことに気づくことでもあります。
たとえば、浄土での寿命は永遠ですので、自らの限りある命への不安を乗り越えていく力になります。
また、浄土は、先に浄土へ旅立った懐かしい人たちに再会できる世界ですので、死別の苦悩を乗り越える力にもなります。
私が直面する苦悩は、自分一人で積み上げた力で乗り越えようとすると現実の厳しい問題によって崩れてしまうことが多々あります。
しかし、阿弥陀様から向けられた念仏によって、苦悩を超える道は開かれているのです。
東京の品川区で医院を開業しています。近くにある本願寺派の西光寺さんの檀家です
当院ではがんの患者さんが多く、死に対する心構えを意識することが多々あります。
亡くなった後、人は救われて浄土に向かうのですが、そのために何故日ごろから念仏を唱えるのかが今ひとつ理解できていませんでした。
本記事を読んで、その疑問が解消できました。
念仏を唱えることは、いつも寄りそっていただいている阿弥陀如来に感謝と親しみを込めて呼びかけているのですね。
有用な情報をありがとうございました。
私は神、仏を信じるものではありませんが、菩提寺が浄土真宗大谷派でありますので、一応朝晩には仏壇に向かい正信偈、念仏、和讃、回向を読み上げております。
菩提寺から頂いた同朋奉讃にある経後念仏和讃(淘三)に如来の作願・・・、煩悩にまなこさへられて・・・、佛慧功徳をほめしめて、の意味を調べておりました。
読み方の記号はついていますがいまいちわかりませんので、YouTube等で探したいと思っていますが、正敬寺様の管理しているページ等がございましたら、ご教授願えれば幸いです。
平素からの疑問に何かしらご教授願えれば幸いです、この世に神、仏はいない、どれだけ拝んでもお願いしても助けては頂けないものだとつくづく感じております。今回このページで見つけた言葉が「命が終わった後は浄土へ救われていきます。」です、どれだけお経を(正信偈はお経ではありませんが)唱えても、誰も助けてはくれない、助けてくれるとお願いするほうが間違っている、とは思いつつも毎日お勤めをしているところです。毎日仏壇に向かい正信偈を唱えている小職にねぎらいの言葉をいただければ幸いです。
この度はコメントを頂いておりましたが、返信が遅くなってしまい申し訳ございません。
毎日お勤めをされておられるのですね、それは本当に尊いことだと思います。
また、和讃の意味をお調べになることが素晴らしいですね。
ブログにお越しくださったのも何かのご縁だと思います。ありがとうございます。
まず、「同朋奉讃」に関してとのことでございますが、正敬寺は浄土真宗の「本願寺派」の寺院でありまして、「真宗大谷派」とはお勤めの際の作法や節が異なります。ですので、当方では分かりかねてしまいます。また、当方で管理するサイトもございません。お力になれず申し訳ございません。
お役に立てるか分かりませんが、こちらでもお調べしましたところ、いくつかyoutubeにも動画があるようです。また、代表的なお勤めであれば、東本願寺出版様より、CDやDVDが出ている可能性もございます(内容は東本願寺出版様にご確認ください)。
さて、この世に神や仏はいないと仰っておられるお気持ちはよくわかります。
特に苦しいときほど、神や仏の存在を信じられなくなるもだと思います。
仏教では、人生をありのままみつめたとき、人生は苦しみであると捉えています。
病気や死、思い通りにいかない苦悩。何かを得れば何かを失う。
あらゆることが苦になり得ます。
そういった、人の苦を見抜いたのが阿弥陀様であり、あなたの悲しみを、私も共に悲しもうと仰られているのが阿弥陀様でした。そうであるなら、苦しいときほど、実は仏様が身近におられるのかもしれません。
仏さまは目には見えませんが、仏教に興味を持ち勉強したり、毎日のお勤めをしたりといった、仏縁が重なるなかで、感じられるようになってくるのではないかと思っています。
長い目で見ると、あの苦しみがあったから、仏縁が生まれ、お念仏するようになった。あの苦しいとき、目には見えないけれど、照らしてくださっていたのだと感じるものだと思います。日々お勤めされていることは、決して無駄なことではないと思います。
私が意識するずっとずっと以前から 私よりも私のことをだいじに念い続けてくださっている如来さまを感じる 私も好きな一首です。
なんまんだぶ なんまんだぶ・・・