お盆と言えば、ご先祖様が帰ってくるので、お墓参りをするだけと思われている方も多いでしょう。
特に初盆を迎える方がそのように思われる傾向が強いように感じます。

ですが、お盆には、それ以外にも大切なことがあります。
それが「感謝」です。

そもそも浄土真宗におけるお盆とは、亡くなった人を偲び、
そこに無常を感じ、仏様の御教えに感謝する行事です。

この感謝を浄土真宗では、
仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)という言葉で表しています。

簡単に言うと、
自分にも阿弥陀さまの「はたらき」が届いていることに感謝するということです。

親鸞聖人は、この仏(阿弥陀)さまの「はたらき」を
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」や「ものの逃ぐるを追はへとるなり」という言葉で示されました。

「決して、永遠に捨てない」、
「仏様から逃げようとしても、逃げられない」ほど、
しっかりと、阿弥陀さまの「はたらき」には、あなたに至り届くというのです。

仏様は区別をしません。

念仏するどんな人にも、しっかりと至り届きます。

その事に感謝するのが、仏恩報謝です。

そして、その縁を持たせてくれるのが、身近な人の死であることが多いのです。

現在の日本では、多くの方は仏縁を持つのは、
お葬式やお盆なのどの行事くらいだと思います。

では、なぜその行事に参加するようになったのでしょう。

それは、亡くなった方がきっかけでだったのではないでしょうか。
多くの方は、自分の親しかった人の死に触れることで、初めて死を身近に感じるものです。
そして、お葬式やお盆の行事を通し、死について考えたり、仏様の教えに少しずつ出遇って行かれるでしょう。

つまり、人の死が仏縁となっているのです。

正敬寺ではお盆のとき、時間を決めて本堂でお盆の法要を行います。
納骨壇(室内型のお墓)に故人のお骨を安置されている方は、法要のあとそこにお墓参りをされます。そのときは、僧侶がお経を称え、お焼香をしていただきます。

いずれにしても、機会あるごとに故人を偲び手を合わせることが、仏さまと共に生きることにつながるのではないでしょうか。

最後に、浄土真宗本願寺派第二十四第 大谷光真ご門主の著書から
亡くなった方と残された方の受け止め方についての文章を引用させていただきます。  

亡くなった方と私たちとをつなぐものは、
もう思い出しかないのでしょうか。
いいえ、私たちは、亡くなった方とともに生きていくことができます。

人は亡くなって、仏さまになります。
浄土真宗の考え方では、 生きているときに阿弥陀さまの願いを聞き、お念仏を申す人は、
この世のいのちが終わると阿弥陀さまの国に生まれて、仏さまになります。

この仏さまとは、「力」や「はたらき」をいうのです。
ちょうど季節の訪れのようなものだといえばおわかりいただけるかもしれません。

(…中略…)

仏さまも同じです。仏さまもまた、姿かたちでその存在がわかるものではありません。
私たちが、仏教の勉強をしたり、お寺へお参りをしたり、おつとめをしたりする、
そうした仏縁が重なるなかで、感じられるようになってくるものなのです。

亡くなった方のお骨や思い出は過去のものでしかありませんが、
仏さまとなった方とこころを通わせることは、現在も未来も、永遠に可能です。
仏さまと私たちとは、常に一緒にいられるのです。

(大谷光真『朝には紅顔ありて』角川書店)