人と出会わない
外へ出かけると出会いがあり、そこにまた新しい話題があるといったのも、過去の話になりつつある。
最近、正敬寺の周辺を自転車で檀家参りをしていても、あまり人と出会わない。日によれば檀家参りの途中道で誰一人言葉をかわすことなく檀家参りをする日がある。
2~3年前までは・・・
少し前までは檀家参りに出るとかならず誰かとあって挨拶をしたり、立ち話をすることが毎日のようにあった。しかし、最近そういう事が少なくなった。
人と出会う場所が減り、社会の構造の変化が・・・
なぜ、このような事になったのかとふと考えてみると、正敬寺の周りにあったやよろずやの様な食料品店や何でも売っている雑貨店がなくなった。そういう店に行くと誰かがいてそこで立ち話をよくしていたが最近そういう小さな店がなくなったのも一つの原因だろう。
人と人が濃密な関係にあるときは「遠くの親類より近くの隣組」といわれ隣近所を大切にしたものだ。しかし、そこには「わずらわしさ」があり気楽に生きたいと思っていた人が少なからずいたものだ。
しかし、いまのように話し相手が少なくなるとさびしいという人が多くおり、ほんの少しの前の時代を懐かしむ人がいる。これも時代の流れだろう。
地域の出会える場所に行ってみよう
そこで、それぞれの地域で人と出会える取り組みが始まっている。例えば、「ふれあい喫茶」や公園の掃除・墓の掃除などもその取り組みの一環だろう。
それぞれの地域で人と人が触れ合える取り組みがなされている。そこに出かけて行って人と出会い、日常のたわいもない話でもすればまた日常の生活がちがったものになるかもしれない。
まず、外に出て、そして人と会話すれば新しい何かがあるかもしれない。
人と人との出遇いの意識 そのたいせつさの感覚って この20~30年ほどの間に はっきり変わってきているなと私も思います。
子どもの誘拐事件とか 無差別殺人とか そういう事件が連続し 過大に報道され 世の中が悪しき意味で警戒心が強まり 閉鎖的な疑心暗鬼が蔓延していったのが「平成」の時代であったのかなと思います。
人とのコミュニケーションの遮断が 人を追い詰め 孤独に押し込み 悩みが共有されず 自死者の激増にと悪循環していったのではないかと思いますね・・・。