慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)
2月の言葉は、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)など、少し難しい言葉が出てきました。慚愧は煩悩を恥じること、歓喜は大きなよろこびのことです。
ですので、念仏者の人生は「煩悩を恥じること」と、「大きな喜び」とが入り混じっているということになるのですが、一体どういうことなのでしょうか。
「恥じること」と「喜ぶこと」は全く違うこと のように思われますが、これらは 同じことを別々の側面から見たことと考えて良いかも知れません。簡単に言ってしまえば、「分かってはいるけど止められない私」、そして「出来の悪い子ほど、放っておけない仏様」と「その仏様に対する感謝の気持ち」という関係とも言えるかもしれません。
つまり、慚愧とは、出来れば捨て去りたい煩悩を恥じることです。別の視点から見れば、それがあるからこそ仏様が すくおう と思ってくださる切っ掛けにもなり得るのです。こんなにも醜い姿を持つ私に、仏さまは手を差し伸べてくださっている。そこに対する深い感謝と喜びが歓喜なのです。
そう聞いて、あなたは素直に喜べますか?
『歎異抄』によれば、唯円が浄土に生れる身を喜べないと告白したとき、親鸞聖人は唯円を否定するのではなく、自分も同じであると仰っています。
また、主著である『教行信証』では、悟りが約束され、それを得る仲間に入ることさえも、嬉しいとは思わないと仰り、そんな自分が悲しいとも仰っています。
ほんとうに身をもって知ることが出来た。悲しいことに、この愚禿親鸞は愛欲の広い海に沈みこんでしまい、名利の大きな山に迷って、悟りを頂き仏様にさせていただく仲間に入ることをうれしいとも思わないし、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない、恥ずかしく、嘆かわしいことである、と。
人間の煩悩が尽きるのはいつでしょうか。それは仏さまになったときです。では、それはいつなのか。それは、死んだときです。その瞬間、人はお浄土へと生れます。お浄土は阿弥陀様の悟りの功徳で満ちていますので、水に入れば濡れるように、お浄土にいたれば悟りに至るのです。
親鸞聖人は、自分は悟りを得たとは言わず、死ぬまで、ご自身の煩悩を正面から深く見つめられたお方でした。生きている限りは、泣く、怒る、妬む、そんな感情が湧いてきます。そういった人間の姿をご自身の中に見つめ続けられたのです。そのような姿を悲しいと仰ったのです。
そして同時に、そうだからこそ、阿弥陀様の すくい の目当ては、自分自身であると実感されたのです。
(『歎異抄』)
阿弥陀仏が五劫という長い時間をかけて考え、おこされた、人々をすくいたいという願いを よくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためであった
非常に多くの煩悩を持っているこの私(親鸞)を すくわず には おれない と思い立たれた願いのなんとかたじけないことよ。ということなのです。
念仏と共に生きているということは、自分の煩悩を自覚していても、そこから離れることの出来ない愚かな自分と、それを放っておけない仏様の慈悲、そこに対する申し訳なさや感謝の気持ち、それら全てが入り混じっているということなのです。
それが、今月の言葉
念仏者の人生は まさに慚愧と歓喜の交錯
なのです。
慚愧のない歓喜は、居直りみたいな、自分本位で周りが見えない喜びになっていくのでしょうね。
今の政治家なども、わからなければいいという感じで平気で不正を働いて、発覚したら国民の信頼を傷つけたなどと「慚愧」のふりをする嘘っぽさ。
本当の歓びって、守るもの、隠すものが手放される、そんな世界なのかなぁと思わせていただきました。