清九郎が仏道に入ったのちは、お念仏を続ける生活を送りますが、ある日、亡き娘の夫・久六が、毎日お念仏する清九郎に嫌気がさし、清九郎が大切に読んでいた『御文章』をメラメラと燃え盛る囲炉裏に投げ込んでしまいました。

すると清九郎は、火中に投げ込まれた『御文章』は、「煩悩の火の中に飛び込んで、私を助けようとする阿弥陀様の姿そのものだ」といい、怒るどころか、そのような姿を見せてくれた久六に感謝したといわれています。
以来、久六も感銘を受け、清九郎とともにお念仏の道を歩んだといわれています。

妙好人と言われる人は、身の回りに起こる出来事に阿弥陀様の姿を見ていることが分かります。そのような姿勢に、頭が下がらずにはおられません。阿弥陀様のすくいを喜ぶ姿を見て、周りの人も感化されていく、これこそが真宗における伝道の本質であると思われます。

また、『妙好人伝』を最初に編纂した仰誓が、清九郎に二度目に会ったとき、越中へ行った感想を尋ねました。すると清九郎は、
「私がありがたかった。」
と言いました。仰誓は、私達は他人がまめやかに信じている姿を見て嬉しく喜ぶだけで、わが身の上のことは考えないが、清九郎は、何につけても自身の往生を喜んでおり、誠に有難いと述懐したといいます。

周りへの影響・評価を気にしてしまう私たちですが、まず自身が法に出遇ったことを喜ぶことが大切だと、改めて考えさせられるエピソードです。