私を生かしておる 力というものに
帰っていく歩み それが仏道

 

真宗連合 法語カレンダー 1月より

生かされている私

よく、「生きるんじゃない。生かされてるんだ。」という言葉を聴くことがあると思います。ですが、生かされているというのは、あまりピンと来ないという方も多いのではないでしょうか。

いまここに生きている命というのは、無数のご縁によって生かされている命です。お寺にいますと、人より多く訃報の知らせは入ってきます。その中には、前日まで元気に過ごしていた方の突然の訃報や、まだまだ若い方の訃報もあります。

白骨の御文章の中に、

朝(あした)は紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり

とあります。

私たちは、明日終わっても不思議ではない人生を歩んでいるのです。朝、目が覚めない方もおられます。朝、目が覚めて、昨日の続きの仕事が出来ることは当たり前のことではないのです。今、死なずに生きているというのは、それだけで実は当たり前のことではないのです。そしてそこには、無数のご縁があるのです。たまたまあっちの道を選んだから。たまたま電車に乗り遅れたから。たまたま道が渋滞してたから。私たちの人生は、このたまたまという小さな出来事に左右されることも多いのです。

さまざまなご縁

仏教では、すべての存在は、さまざまな縁により、寄り集まっていると説きます。私を生かしてくださっている「ご縁」に気づくこと。それが仏教であります。何もできない赤ん坊が周りの支えによって成長し、いまのあなたになっています。普段の食事でもそうです。私はお米を作ることもできません。魚を採ることも出来ません。調味料を作ることが出来ません。全てどこかで誰かが、雨の日も暑い日も、米を作り、魚を採り、味噌や醤油を作ってくれているのです。お金を払えば自動的に出てくるわけではないんです。一回の食事でも会ったことも見たこともない、多くの人の力に支えられているのです。

そうした、ご縁に気が付いたとき、自分が生きているのは、自分の意思だけで生きているのではないと感じられるものです。いまが幸せなら、感謝が生れるかもしれません。いまが、幸せでないのなら、恨みが生れるかもしれません。ですが、10年後、平和に過ごしていたとしたら、あの時の経験があって、いま平穏な日々を喜べるんだと感じられるかもしれません。それも出来事が寄り集まったご縁なのです。

長生きしたいからと言って出来るものではないし、早めに死にたいからと言って死ねるわけではない。私たちは自分の意思一つで、生死を決めることは出来ないのです。

そういったことに気が付くと、たまたま生きている今の私と思え、生きているのではなく、生かされていると思えるのかもしれません。