帰っていく歩み それが仏道
生かされている私
よく、「生きるんじゃない。生かされてるんだ。」という言葉を聴くことがあると思います。ですが、生かされているというのは、あまりピンと来ないという方も多いのではないでしょうか。
いまここに生きている命というのは、無数のご縁によって生かされている命です。お寺にいますと、人より多く訃報の知らせは入ってきます。その中には、前日まで元気に過ごしていた方の突然の訃報や、まだまだ若い方の訃報もあります。
白骨の御文章の中に、
とあります。
私たちは、明日終わっても不思議ではない人生を歩んでいるのです。朝、目が覚めない方もおられます。朝、目が覚めて、昨日の続きの仕事が出来ることは当たり前のことではないのです。今、死なずに生きているというのは、それだけで実は当たり前のことではないのです。そしてそこには、無数のご縁があるのです。たまたまあっちの道を選んだから。たまたま電車に乗り遅れたから。たまたま道が渋滞してたから。私たちの人生は、このたまたまという小さな出来事に左右されることも多いのです。
さまざまなご縁
仏教では、すべての存在は、さまざまな縁により、寄り集まっていると説きます。私を生かしてくださっている「ご縁」に気づくこと。それが仏教であります。何もできない赤ん坊が周りの支えによって成長し、いまのあなたになっています。普段の食事でもそうです。私はお米を作ることもできません。魚を採ることも出来ません。調味料を作ることが出来ません。全てどこかで誰かが、雨の日も暑い日も、米を作り、魚を採り、味噌や醤油を作ってくれているのです。お金を払えば自動的に出てくるわけではないんです。一回の食事でも会ったことも見たこともない、多くの人の力に支えられているのです。
そうした、ご縁に気が付いたとき、自分が生きているのは、自分の意思だけで生きているのではないと感じられるものです。いまが幸せなら、感謝が生れるかもしれません。いまが、幸せでないのなら、恨みが生れるかもしれません。ですが、10年後、平和に過ごしていたとしたら、あの時の経験があって、いま平穏な日々を喜べるんだと感じられるかもしれません。それも出来事が寄り集まったご縁なのです。
長生きしたいからと言って出来るものではないし、早めに死にたいからと言って死ねるわけではない。私たちは自分の意思一つで、生死を決めることは出来ないのです。
そういったことに気が付くと、たまたま生きている今の私と思え、生きているのではなく、生かされていると思えるのかもしれません。
生かされている!
その謙虚さが ひいては私たちを救うのではないかと感じます。
環境や他のいのちとのつながりを無視した開発や地球資源の収奪が 今の気候変動を生んでいることを考えると 「生かされている」という謙虚さの原点に立ち帰ることって 今 人類全体に求められていることだと思いますよね。