輪廻転生(りんねてんしょう)
「輪廻転生」という言葉がありますが、正確には「六道輪廻」という言い方をします。「輪廻」という考え方は、迷いの世界を生まれ変わり、死に変わりすることを言います。この世に生まれる前にも前世があったという考え方につながります。
六道輪廻とは・・・
六道を輪廻するということです。六道とは、人がそれぞれの行為により、次の生で生れることになる迷いの世界のことで、大きく分けると6つの世界があると言われています。
下の世界から見ていくと
地獄界
下から申しあげますと、地(ち)の下の牢獄、いわゆる「地獄」という事になります。ここは、自らの罪業の結果として生まれる世界で、苦しみの極まった世界です。そして地獄にもいくつかの種類があり、八熱地獄、八寒地獄、孤地獄などが説かれています。
餓鬼界
次に下から二番目が「餓鬼」(がき)という世界です。一般的に「餓鬼道」という表現されていますが、貪欲の報いとして生れる世界で、食べ物に大変不自由する世界だといわれています。
畜生界
下から三番目が「畜生」(ちくしょう)という世界です。畜生というと動物の世界とイメージされるかもしれませんが、ここは人にたくわえ養われて生きるということで、鳥・獣・虫・魚として生きる世界です。愚痴の報いとして生れる世界です。
阿修羅(修羅)界
下から四番目が「阿修羅」(あしゅら)という世界は、たえず戦いをしている世界の事をいいます。常に敵がいて戦いの中に生きるというのは心が安らぐことがなく、非常に大きな苦となります。
人(間)界
下から五番目、言い換えますと、上から二番目に私たちが生きている世界である「人間界」です。実は人間界は、天上界に次いで楽の大きい世界なのです。生きていれば大きな苦しみも何度か経験しますが、楽しいこともそれなりに経験します。これは他の下の世界ではないことです。ですので、人間界に生れてくることは非常に稀であり有難いことなのです。とはいえ、その楽に慣れ切り、感謝を忘れると人間は傲慢になるものです。もしも、傲慢になりすぎ、他を傷つけ続けると次の生では、他の苦しみの多い世界に生れることになります。
天(上)界
そして、最後に下から六番目、すなわち一番上の世界が「天上界」(てんじょうかい)とか「天界」と言っている世界で、人間界より素晴らしく、衆生(しゅじょう・全ての生きとし生ける存在のことで、一般には人間をさすことが多い)が生れる最高の世界とされています。この天界は神の世界なので、悟りを得た者が生まれる世界と勘違いされる場合もあるのですが、ここもまだ迷いの世界です。ですが、他の世界とは大きくことなり、最高に楽が多く寿命も非常に長いといいます。一見何の苦もないように思えるのですが、この世界に生れても寿命はあります。つまり、次はどこか別の世界に生れる可能性があるのです。今までが最高に楽の大きな世界だっただけに、次の生にどこに生れるか分からないというのは、非常に精神的に苦しみがあるということです。
これら六つの世界の中でも、地獄界・餓鬼界・畜生界の三つの世界は、苦しみが特に大きいため、「三悪趣(さんあくしゅ・さんまくしゅ)」や「三悪道(さんあくどう・さんまくどう)」と言います。また、別の呼び名は「三途(さんず)」といい、「三途の川」はここからいています。これに対して、修羅界・人間界・天界を「三善趣(さんぜんしゅ)」「三善道(さんぜんどう)」と言います。
これら、六つの世界を生まれ変わり死に変わりと循環することを「六道輪廻」という言い方をしています。そしてこの苦しみの世界、つまり迷いの世界の循環を抜け出す方法が悟りを得ることであり、仏教の目的と言えます。
六道輪廻、輪廻転生の記事拝読致しました。浄土真宗は輪廻の主体であると思われる「霊魂」の存在は、否定的であると了解しますが、では、何(誰)が輪廻の主体なのでしょうか。あるいは霊魂の存在を否定するということは輪廻そのものも否定されると考えて宜しいでしょうか? 仏教は「無我説」を説くので輪廻説はこれを矛盾する言われいます。私の個人的な考え方では、無我説は「永遠不変の実体は存在しない」という釈尊の教えですが、霊魂は「無常なる実体」であれば無我説と矛盾しないのではと思っています。本願の第19願、20願に説かれる自力の人は方便化土に生まれ、そこで500年間過ごし、他力の信心を戴き、真実報土に転入するという親鸞聖人の教えがありますが、自力の霊魂は500年の間に他力の霊魂に「大いなる変身」を遂げる。つまり霊魂は「無常なる実体」と考えます。浄土真宗本願寺派の輪廻及びその主体は何か、あるいはり両方否定されるのか、霊魂は「無常なる実体」と思ってよいのか、また大谷派はどのように考えるのか。以上に就きご教示戴ければ幸甚です。宜しくお願い致します。
佐藤様
コメントの承認と返信が遅くなり申し訳ありません。
またコメント入力時に必要だったお名前等は、公開時に編集させていただいております。
いただきましたコメントに関しましては、後ほど返信させていただきます。
コメントありがとうございます。
何が輪廻しているのか。というのは、非常に難しい問題ですね。私も、いまだによく分からない部分があります。ですので、これは、本願寺公式の見解というよりも、私個人の解釈ということでお答えさせていただきます。また、大谷派の見解については詳しくありませんので、意見は控えさせていただきます。
まず、仏教はもちろん、浄土真宗でも輪廻は否定しません。
では、何が輪廻するのかと申しますと、古くからの真宗学の先生方が言われるのは「私」が輪廻すると言われます。「私」は、その時の状況や条件によって変化する存在であり、「私」を構成する要素が変われば、物事の考え方が変化したり、肉体が変化したり、肉体を離れ、存在する場所も変化する。つまり、それが輪廻するということです。ですので、ご指摘のとおり、仏教では永遠に変化しない「我(が)」、つまり霊魂は否定されますが、条件や状況によって変化する「この私」が輪廻するということです。
個人的な考えでは、仏教学で言う「霊魂」と一般認識の「霊魂」の定義は違うように思います。仏教学の「霊魂」は永遠に変わらない存在とされるのに対し、一般認識の「霊魂」は、変化する意識そのものということではないかと思います。そして、ここで言う輪廻の主体としての「私」とは、一般認識の「霊魂」に該当するのではないかと思います。
ですので、佐藤さまのご指摘と同意見になるかと思いますが、輪廻の主体は「無常なる実体」であり、それが「私」と呼ばれている存在であると考えます。
返信有難うございます。一般のEメールで返信戴くものとばかり思っていましたので、気が付かず申し訳ありません。親鸞聖人は輪廻の主体は「私」であるとされていることは認識していましたが、どうもしっくりしなかったのですが、大変参考になりました。何となく見えてきた感じです。もう一度脳内の回線を整理をしてみます。有難うございます。 佐藤